名大医学部学友会時報 第633号(2002.10.22 発行) より

女医訪問(9)

 一宮市 松浦眼科 松浦雅子 先生 (S45卒)

 

 第9回目の今回は、一宮市で松浦眼科を開業なさっている松浦雅子先生にお話を伺いました。先生は、昭和45年に名古屋大学医学部をご卒業され、麻酔科へ入局なさった後眼科へ転科され、以来ずっと眼科医としてご活躍なさっています。

Q 医師を志された理由をお聞かせください。

 最初から医師を志した訳ではありません。小さい頃は、弁蔑士か外交官になりたいと思っておりました。でも、弁護士も外交官も大学を卒業してから大変な難関を突破しなければならないと云うことがわかり、さっさと宗旨変えして医学部を受験することにしました。いいかげんな動機でしたが医師になったことを後悔したことはありません。これは天職だと思っております。

Q  眼科を専攻された理由をお聞かせください。

 最初から眼科を専攻した訳ではないのです。卒業して一年研修の後、麻酔科へ入局しました。ペインクリニックや全身麻酔を覚えて、とても充実した毎日でした。でも、麻酔という性質上、縁の下の力持ちと云う部分は否めません。全身麻酔をかける度に、この事がいつも頭の中から離れなくなり、転科を考えました。眼科に決めた理由は、臓器が一つで、勉強する範囲が少ないので、楽じゃないかなと思ったからです。でも、これは後日大きな誤りであったことが判明しました。眼は、感覚臓器ですから奥が深いのです。学ぶ事ばかりで楽どころの話ではありませんでしが、嫁の下ではなく、患者さんの治療に直接にあたることができる喜びを感じました。手術が終わって患者さんが鏡で自分の顛を見られて、「私ってこんなにシワがあったんですね」とか「家の汚れが目について」とか云いながら見える喜びを語ってくれると、本当に限科医冥利につきると思います。

Q 字生時代での印象的な出来事をお聞かせください。

 私共の学生時代は学生運動の盛んな時代で、何もわからずデモに参加したりしました。五者協の発足した頃で、共済会館にクラス皆んなで一晩泊まり込んで教授会と交渉したのも懐かしい想い出です。授業はよく代返をしてもらってさばったりしました。私達のクラスは女子学生が10人いたのですが、講義には1人か2人しか出席していなくて、試験になると全員出席して、ある教授から「君達のクラスは、こんなに女子学生がいたのかね」と大顰蹙を買ったりしました。

Q 家庭と仕事の両立で御苦労なさったのはどのようなことですか。

 主人と母の理解と協力で、あまり苦労らしい苦労はしませんでした。それでも、静岡へ単身赴任した折、子供が熱を出したり下痢をしたりした時は、最終新幹線で帰って来て、翌日一番の新幹線で静岡へ戻り仕事をしたことは一度や二度ではありません。昼間の疲れから一度眠ったらなかなか起きない私に代わって、主人がおむつを替えたりミルクを与えたりしてくれました。そのうちに、夜の育児は主人の仕事になってしまいました。女医が仕事を続けていくには、回りの応援がないとできませんね。

Q 女性として、メリットやデメリットをお感じになったことはございますか。

 私が医師になった頃は、まだ女医が珍しい時代で、当直免除や親切にしてもらえる等良いこともありましたが、高度な検査機器は女医には触れさせない、手術はあまり任せない等差別はありました。今では考えられないことですが。当直するから男性と同じように手術も教えて欲しいと頼んだこともあります。これは、私達女医にも育児や家事を理由に早く帰りたがったり、責任をとらない等反省すべき点も多々あったように思います。

Q 最後に女子学生へのメッセージをお願いします。

 せっかく医師になるなら、ずっと仕事を続けて欲しいと思います。我々の時代と違って、女医にとって随分良い環境になっているんじゃないかと思います。男性医師と対等に扱って欲しかったら、仕事はきっちりと行なうべきでしょう。プロの世界では、甘えは許されないと思います。それと、育児の手を抜かないで下さい。これは、育児、家事を大いにさばって大反省している私からのアドバイスです。子供が小さい頃、歯医者さんへ連れていった時、「おばあちゃん助けて」と泣かれた時は、いささかショックでした。

−大変お忙しい中、どうもありがとうございました。家事や育児と仕事の両立といった私達の関心も高い問題について、貴重なアドバイスをいただくことができました。先生のアドバイスを助みに、私達も頑張らなくては、と思いました。   (インタビュアー 羽別野 さやか)